本日は三男の誕生日。朝、震災後初めて子供達と電話。お互いに言葉少なめに語る。涙がどうしても出てしまう。自分が生きていることに感謝。大分の義父とも電話。「地域医療を守ってね。子供たちのことは心配しないで」と。こちらも感謝。しばらく子供たちは両親と離れて生活。
昨日づけで「輪島市保健医療福祉調整本部」に能登北部医師会の代表として異動。
同時にチームごちゃまるクリニック(看護師2、作業療法士2、助産師1)も医療支援チームとして登録。
本日は早速重大案件。輪島高校を避難所として立ち上げ、そこに市役所の避難者を移動。
ここで精神、妊婦、新生児、認知症など要支援高齢者、準寝たきり高齢者など様々な背景の避難者をトリアージすることが急務となる。DMATと行政各担当部署との協働、橋渡し。そしていまだ不足する看護・作業療法・助産師としての視点を共有。繰り返し繰り返し繰り返し最善を模索してついに移動実行!
当然出てくる不測の事態に対応すべく、市役所、輪島高校、ふれあい健康センターを走り回り、頭を下げまくり、反省しまくり、感謝しまくり。
介護度の高い準寝たきり高齢者はふれあい健康センターに移動。ここで看護・リハビリスタッフの威力炸裂!要支援者の介護度を確認し、丁寧に説明し、寝床と避難スペースをつくる。これは絶対に医師ではできない!事実上の福祉避難所であるふれあい健康センターの環境整備力は抜群!
途中ごちゃまるメンバーに余裕のない態度をとってしまったことを猛烈に反省。能登半島地震を経験した行政の先輩方にからかわれ、慰められる。
最後に、
ここまでの避難所生活の中で最も印象に残ったこと。避難者同士の互助がとても力強い。支援物資を運ぶ高校生、避難所の掃除をするお母さん、力仕事をするお父さん、見知らぬ人のおむつかえや見守りをするおじさま・おばさま、移動が大変な高齢者をおんぶするお兄さん…
避難者のボランティアが決して素晴らしいことばかりではないことはわかっている。が、支援者の皆さんがなかなか到着できなかった3日間、確かに住民同士の支え合いでしか乗り越えることはできなかった。みんなに、お互いに感謝。みな、頑張っています。みんながヒーローです。
ここまで最も辛い作業である大火事の消火にあたったまちの先輩に再会。愛する我らが町の消火に尽力。助けたくても助けられなかった命。それは私も同じ。発災直後、潰れた家屋のしたに確かにいたであろうご近所さん。
「私は先生に看取られるのが夢なんですよ」冗談まじりで、でも確かに真剣な思いでそうおっしゃってくれていた。大切な患者さんであり、ご近所であり、そして愛すべき町の先輩であった方。いまだ消息は不明。
震災後再会できた友人・知人に会うたびに涙がとまならい。嬉しさ、悲しさ、悔しさ…
今日は本当にたくさん泣いた。あまり私的感情や体験は語りたくないですが、これだけは、備忘録として。
追記
避難所の環境は決して良いものではありません。電気は不安定、水なし、特にトイレが最悪。流せず簡易トイレも山のように積り始めています。掃除も十分にはできていない。簡易トイレの増設が進行しています。